始めに・・・
 ドナーについて、もう一度考えてみようと思いました。
「考えてみる」と言うよりは、2度の移植、そしてその前後に、いっぱい色々考えてはきたわけで、でもそれは浮かんでは消え、消えては浮かび、次の日には忘れ、思い出した時には別の意見となり、「こうだ!」とか「こうすべきだ、そしてあるべきだ!」などと強い口調で言えるほどのものではありません。
 だた、考えたこと、感じたことを少しまとめてみようと思ったのです。
 (まとまってるのか?・・)


   
T「賞与2・昇給1・ドナー休暇あり」の世の中
 今の日本の体制では、ドナーの増加に余り期待は出来ないと思う。
 まず、骨髄移植のドナーになるには「入院」という大きな壁があるからだ。
一般的に考えて、会社勤めをしている人が、4〜5日の休みをそう簡単に取れるとは思えないし、仮に取れたとしても、そんなしょっちゅう取れるわけもなく、必然的に「貴重」となってくる連休を、見ず知らずの他人の為に取ろうと言う人が、一体どれくらいいるだろう?
 その上、入院までに私の場合なら、健康診断に2度の自己血採取のため、最低2度は病院を訪れなければならなかった。
ここでも2日間仕事は休むかもしくは、遅刻、早退のどちらかをしなければならない。(だけど、移植先が大病院なら健康診断も一日がかりなのだ)
 私の場合、患者は姉で、事情は話していたので理解してもらっていたし、最初の移植の時はアットホームな職場での理解ある上司、立場もパートだったからその辺の気兼ねはなかった。だけど、2度目の移植の時は勤めて間のない正社員。上司には、「君の立場を理解してもらうためにも事情を事務所のみんなに話すべきだ」と言われ、実際に仕事を辞めることも考えた。
 つまり、患者が家族だから許された状態だったと言わざるを得ない。
 これだけのことを、見たことのない他人のために私自身出来るだろうか?と、よく考える。お姉ちゃんだから、仕事なんて辞めてもいいし、何言われたっていいやと思えるけど、「他人」だったらどうだろう?
答えはやはり、今の職場なら無理だと思う。
気持ちの上での躊躇や迷いはない。
だけど、今の状況ではドナーにはなれない。
 こんな事を言って、もし責める人がいたならば、その人は患者自身か、患者の家族に違いないと私は思う。もしくは、患者さんの近くで色々見聞きしているドナーバンクのボランティアの人達か。
 でも、私のような状況でドナーになれない人はたくさんいると思う。
コーディネートの段階で断る人の何割かはそうじゃないだろうか?
気持ちはあっても、やはり、できないのだ。
そして、そういう人達を責めることは私には出来ないし、そういう自分自身を、自分自身が責める気にもならない。
 では、どうすればいいのか。
偉そうなことを言える程、何かをしているわけではない私だけど、あえて言うなら会社全部に国の補償する「ドナー休暇」が必要だと思う。形だけのものではなく、誰でもがあたり前に使える「ドナ休暇」。これなしでは、今の私のような人達にドナーとなれる日はこない。
 もちろん、簡単なことではないけど、今度「骨髄移植に医療点数を」と言う嘆願書が全国で集められた。患者の負担を少しでも軽くというもので、素晴らしいことであり、ある意味あたり前のことでもある。
同じように、ドナーの立場を少しでも楽にする制度として「ドナー休暇制度」ができないものだろうか。何度も言うようだけど、これはあくまで誰でもがあたり前に使えるものでなくてはならないのだけど。

 1度目の移植の時、アットホームな職場に復帰した私に塾では社会を教える大学の先生が、会うなり敬礼に近いお辞儀をしながらこう言った。
「ご苦労さまでした。」
世の中がこういう風にならないものかと、切に願う今日この頃。
 こんな中でもドナーとなってきた人たちの優しさ、そして強さを、尊敬に近い気持ちで称えたいと思う。
   




U やっぱり自分のためでないと。
 ドナーとなるにあたって、最も大きな問題となるのは、やっぱり心理的な葛藤だと思う。
誰でも命は惜しい。それは患者に限らずドナーだってもちろんそうだ。
「命に危険がないとは100%は言えない」なんて神妙な顔で言われると、やっぱり誰でもびびると思う。
そして、「いいんですね、それでも。」と言わんばかりに迫られると、返答には多かれ少なかれある種の覚悟が必要になってくるのだ。
 私の場合患者は姉でHLAの一致が分かったと同時にドナーとなることは決まっていたし、それは自分自身のあたり前の決断でもあった。
 バンクの人達のコーディネートがどんな形でどんな話しをされるのか分からないけど、私は姉の主治医から母と2人で聞かされた。
 その話しのあと、私は母にこんなことを言っていた。
「ドナーになる気持ちは何を言われても変わることはないのだから、この話しは聞きたくなかった」
びびっていた。
でもびびったと言っても、これから自分がやることに対してびびったのではなく、先生の話しにびびったと言った方が正しい。
そして、心理はこんな風に動いていた。
びびってしまう→あれこれ考える→深刻になる
そして、深刻になればなるほど、あるはずもない「万一の事」が現実味を帯びてくるわけだ・・・。
これが、まずい。
あげくに、深刻さはどんどん増し、ドナーになることは「自分の命を危険にさらしても、他人の命を救う」ことなのか?
と、普段考えてもみない、ドラマの主人公のような悲劇的気分で自分を自分で盛り上げて煮詰まってしまう。
 ところで、何もコーディネートが悪いと言っているわけではありません。
あれはあれで、必要不可欠なものであり、その重要性も理解しているつもり。
だけど、ドナー自身はもっとヘラヘラしててもいいのじゃないだろうか。
責任を持つことと、やみくもに深刻になるのとは違うと思うのだ。
何か怒られそうだけど、私は「ドナー」ということを、立派だとか、素晴らしいことという風に気持ちから入りこむのはどうかと思う。
コーディネートのあと、そこまで思いつめた上でそれでも誰かの命を助けるために!と思える人は心のそこから立派だと思うし、尊敬もする。
だけど、私も含めて見たこともない人にそこまでの思いを持てない人もたくさんいると思うから。
自分が誰かの命を救う・・・なんて、重たい重たい!
だから、もっと楽に考えて欲しいと思う。
誰かのためではなく、自分のためだと思いたい。
 友達は私のことを「お姉ちゃんのためやって言ってもあっちゃん偉いな。」って言った。
でも、偉くもすごくもなくって、私は私が後悔したくないからやっただけだし、ある意味すごい経験をしたけど、そのこと事体は私の人生に影響を与えるほどのことではない。
むしろ、そうやって知り合ったたくさんの人とのつながりの方がどちらかと言うと重要であり、大切なものとなったのだ。
こんな感じでいいんじゃないだろうか。
「家族ならともかく他人のためにそんなことできない。」「結婚してしまった今、そんな危険はおかせない」なんて思ってる人達。
気持ちはすごい分かるし、それを責めることは誰にもできない。
だけど、ドナーはそれほど思いつめることではない。そんなすごいことでもない。
他人のためと思ってしまうのは分かるけど、でも相手は誰かわからない。
 もしかしたら、昔好きだった初恋の人かもしれない。
 もしかしたら、大切だった人の大切な人かもしれない。
 もしかしら、大切な人の大切になるはずの人かもしれない。
 もしかしら、どこかで自分を助けてくれた人かもしれない。
 もしかしたら、これから大切になるはずの人かもしれない。
そう思ったら、もしそういう人を自分が助けられるなら助けたい、自分のために助けたいと、思えないだろうか。






V 何よりまず知ることだ。
 最近知ったのだが、インターネットで自分のドナーが何人いるか調べられるらしい。
これはおもしろいと言うか、ドナーを増やすには大当たりだと思ったが、残念なことに、まず自分のHLA(白血球の型)が分からなければ、調べられない。
そして、自分でHLAの型を調べるにはお金がかかる。(約3万程度)・・・高い。
 血液型を調べるように、HLAの型が調べられたなら、皆が簡単に自分とマッチする人の数を知ることが出来るようになる・・・と思うとホントに残念だ。
と、言うのもみんなやっぱり、ドナーも患者も遠い存在で、自分の身におこらない限りはピンとこない。
私自身、「ドナーバンクに登録しよう」と思っていたこともあるけど、思っていただけで、思うのは、ほんの一瞬。
実際に動くにはやはり何か「きっかけ」がいるのだと感じる。
 ドナーバンクの存在を遠く感じる人がいたならば、是非一度このドナーの人数を知るホームページへお邪魔して、自分、そして、親・兄弟、友達、好きな人とあなたの身のまわりの大切な人、失いたくない人全部のドナーの数をチェックしてみて欲しかったのだ。
(実際には簡単にできないが)
あなたが思うほどドナーの数は多くないでしょう、きっと。
勿論、安心できるほど多い人もいるにはいる。でも、少ない人もやっぱりいる。
 我が家でも家族のドナー数を出してみた。
 もとより、うちは姉と私のHLAは同じで、兄弟の中では弟だけが違う。
もし、発病したのが弟なら、彼は私達とは合わないのだから、当然ドナーはバンクで探すことになったはず。
そして、彼のドナー数はなんと1。たった一人。
一人でもいるじゃないと、思えないのが難しいところで、あの数値はあくまで「登録者数」であり、「絶対ドナーになってくれる人」の数ではない。
では、その一人がダメなら弟はどうなるのか?
発病したのが姉でラッキーだったと思えばいいのだろうか。
 
今のドナーの数では怖い。
そう思うべく、ドナーの数を知ってもらいたい。
前記で述べてきたように、問題は多々あり、ドナーとなることは、やはり今の日本では難しいものだと私自身も思う。
でも、まずドナーの数を知ってもらうところから始めてはどうだろう。
と、言うよりまず興味を持ち、「ドナーバンク」の存在とその素晴らしい活動の意義を知ってもらいたいと思う。
 
  


最後に・・・
 まだまだいっぱい言いたいこともあるような気もするけど、今のところはこんな風にしかまとまらず、読んでくださった皆様には申し訳ない限りだけど、とりあえずは今の意見であり、今の気持ちであるということにしといてください。
 そして、ドナー、ドナーと言ったけれど、患者さん達にとっては、骨髄移植ができればそれでいいというわけではなく、ドナーが見つかってもそれは一度限りのことであり、例え将来ドナーの数が充実する日がきても、その先にまだまだ問題があるということも忘れてはいけないのだと思います。

 最後になりましたが、バンクを通してドナーとなっている全ての人に心からの尊敬を込めて、心からのこの言葉を送ります。
            「ご苦労様です。」

           


            
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